アンブロは、マンチェスターで生まれたフットボールブランドだ。これまで、スポーツウェアとスポーツ・テイラーリングの世界に、多くの革新をもたらしてきた。アンブロのユニフォームキットは、1934年のFAカップでマンチェスター・シティが着用していたことで、その存在を広く知られるようになった。アンブロは、スポーツ・テイラーリングの伝統と現代のフットボールカルチャーを結びつけ、性能とデザイン性が調和した革新的かつ時代を象徴するフットボールウェア、スパイク、エキップメントを生み出している。
よくやった!若者よ、と言うべきだろう。ハロルド・ハンフリーズがのちにアンブロと呼ばれることになるスポーツウェア製造会社を立ち上げたのは、彼がようやく10代を卒業したばかりの1924年のことだった。ハロルドの会社は、ウィルムスローのグリーン通りにある小さなウォッシュハウスから出発した。はじめは、手押し車に商品を載せて配達するような小規模の事業だった。しかし、それから10年後の1934年には、ウェンブリーでのFAカップ決勝に勝ち進んだマンチェスター・シティとポーツマスの両チームにユニフォームを提供するまでになっていた。シティがトロフィーをマンチェスターに持ち帰ったとき、彼らの洗練されたユニフォームに誰もが目を奪われた。1966年の時点で、英国の85%のクラブがアンブロのユニフォームを着用しており、その頃にはフットボールブランドとして確固たる地位を築いていた。
1958年にワールドカップを初制覇したブラジル代表、1960-61シーズンに二冠を達成したトッテナム・ホットスパーズ、そして1966年のワールドカップで王者になったイングランド代表と、優勝を競い合った14カ国。さらには、1970年代から80年代にかけてヨーロッパの偉大な支配者だったリバプールや、1999年に三冠を達成したマンチェスター・ユナイテッド。その他にも、歴史に名を残す偉大なチームや忘れることのできない名勝負の数々。それらは常にアンブロのユニフォームとともにあった。
アンブロが携わった名場面を簡単に振り返るだけでも、それはちょっとした歴史旅行となる。1970年のグアダラハラでのペレとボビー・ムーアによるユニフォーム交換。アラン・シアラーの右手を高々と上げるゴールパフォーマンス。1998年のサン=テティエンヌのピッチでアルゼンチンのDFを抜き去ったマイケル・オーウェンのドリブル。2002年にウェイン・ルーニーが決めたプレミアリーグ初ゴール。その瞬間に彼らが身につけていたユニフォームやスパイク、ときにはその両方が、アンブロのキットだった。
アンブロが選手に提供したのはユニフォームやスパイクだけにとどまらない。1966年のワールドカップでは、3週間に及ぶ長期の大会を戦う選手たちが、練習や休息、そして試合といった異なる場面に合わせて最適な格好を選べるよう、実に5000種類もの衣服を製作したのだ。練習着やジャージ、レインウェア、トレーナーなど、時代を重ねるごとにアンブロが取り扱うスポーツウェアの種類は増え続け、ついには学校の校庭やストリートでのファッションに欠かせないものとなった。ロックスターでさえも、胸にアンブロの「ダブル・ダイヤモンド」のロゴが施されたシャツを着てステージに立ったのだ。アンブロは一種のステータスだった。
ラグビーやクリケット、バスケットボールなどの他のスポーツにも長年にわたって高品質な商品を供給するアンブロは、フットボール用品とスポーツウェアの世界に革命をもたらし続けた。たとえば、名だたる名監督(イングランドにワールドカップをもたらしたサー・アルフ・ラムゼイからファビオ・カペッロに至るまで)や時代を象徴する選手(フランシス・リーからジョン・テリーに至るまで)に協力を仰ぎつつ、彼らのためにつくるものと同じレベルでシャツやショーツ、ソックスを作った。
レプリカ・ユニフォームがファッションの一部となる以前、子供サイズの手ごろな値段のレプリカを考案したのがアンブロだった。この発明により、子供たちは彼らのアイドルの格好を真似できるようになった。アンブロは、ファンが何を望んでいるのかを知っていた。なぜなら、アンブロがごく小さな一企業からグローバルなブランドに成長した後でさえ、ハンフリーズ兄弟の持っていた個性と信念を失わなかったからだ。
オーナーの交代など近年は多くの変化があったものの、「ダブル・ダイヤモンド」ロゴの独自性は不変だった。トレーニング・シューズやスパイク、練習着やユニフォームなどにそのロゴがあれば、それは品質と信頼性が保証されているということだ。「ダブル・ダイヤモンド」ロゴを持つすべてのアイテムは、フットボールを真に理解し、心から愛している人々によってつくられている。1870年代に使用されたイングランド代表の最初のユニフォームの胸の部分に「ダブル・ダイヤモンド」と酷似する模様が施されているのは、ただの運命のいたずらだが、しかし超自然的な予兆だったのかもしれない。
明確なヴィジョンを持ったハロルド・ハンフリーズは、現代のトップレベルのアスリートの実用的な要望に対し、洗練されたデザインを付加して応えるために、スポーツウェアの世界に伝統的なテイラーリングの手法を導入することを望んでいた。圧倒的な軽さが世界中のプロ選手から好評を博した「Speciali(スペシアーリ)」シリーズのスパイクから、革新的なイングランド代表のユニフォームに至るまで、そして遊び場から練習場に至るまで、アンブロはアンブロの精神に忠実であり続ける。そう、若者は、本当によくやった。
アンブロが、プレミアリーグの強豪エバートンと2014-15シーズンからのサプライ契約を結んだことを発表したのは、マンチェスターのアンブロ本社で行われたイベントでのことだった。このニュースはイベントに参加したエバートンファンによってSNSを通じて発信された。アンブロにとってこの契約は、プレミアリーグという大舞台への復帰を遂げた極めて重要な一歩だった。さらにアンブロは、その後すぐにハル・シティ、ダービー・カウンティ、フランスのナントとRCランス、オランダのNACブレダ、そしてセルビア代表と契約を結んだ。
アンブロは2014年5月23日に創立90周年を迎えた。きわめて小さな規模の事業から有数のスポーツウェアメーカーとなったアンブロは、この90年の間フットボールの中心にいた。そしてアンブロはこれまで同様、今後もフットボールに革新をもたらし続ける。「UX-1」シリーズのスパイクをその皮切りとして、他にも多くの刺激的な新製品を発表するだろう。
2009年にアンブロとのパートナシップを結んで以降、最高の瞬間がマンチェスター・シティに訪れた。ライバルであるマンチェスター・ユナイテッドと熾烈な優勝争いを演じたシティは、最終節のQPR戦でアディショナルタイムのゴールによる逆転勝利を収め、最終的に得失点差でユナイテッドを上回って、1968年以来となるリーグタイトルを手にしたのだ。
前年に引き続き、アンブロは新ユニフォームの画期的なお披露目にこだわった。ドイツのハンブルグで行われたボクシングの世界ヘビー級王座統一戦では、イングランド出身のボクサーであるデイビッド・ヘイが、イングランド代表の紺色の新しいアウェイユニフォームを着てリングに登場した。また、スペインで開催されたベニカシムフェスティバルでは、イングランド出身の音楽グループ「チェイス・アンド・ステイタス」のメンバーが、同じく紺色のユニフォームでステージに立ち、会場を盛り上げた。
マンチェスター・シティの古くからのファンであるリアム・ギャラガーは、クラブの新ユニフォーム発表に合わせて、クラブのアンセムである「ブルー・ムーン」を自身のバンド「ビーディ・アイ」とともに演奏するプロモーション映像(※)を披露した。また、新ユニフォームには、クラブのサポーターが歌う「ブルー・ムーン」の音波をモチーフとした模様が施されており、この革新的なデザインのユニフォームとともに、シティはリーグ優勝を遂げた栄光の2011-12シーズンを戦ったのだ。
訳注:「ブルー・ムーン」と「ビーディ・アイ」の新曲「the beat goes on」をメドレー形式で演奏するPV
アンブロのユニフォームを着用したマンチェスター・シティが、2011年のFAカップ決勝でストーク・シティを1-0で破り、35年ぶりのタイトルを手にした。
南アフリカワールドッカップの直前、アンブロはイングランドの多様性と誇りを「God Save the Queen」に乗せて高らかに謳い上げるプロモーション映像を発表した。
イングランド代表の新たなユニフォームを生み出すために、アンブロはファッションデザイナーのアイター・スロープ、グラフィックデザイナーのピーター・サヴィル、そして
革新的かつ創造的な考えを持ったたくさんの人々と手を組んだ。
アンブロは、パリで行われたロックバンド・カサビアンのライブで、イングランド代表の新しいアウェイユニフォームを発表した。ライブのアンコールの際に、バンドのフロントマンを務めるイングランド人のトム・ミーガンが、赤いユニフォームを着用してステージに登場したのだ。このような形でフットボールのユニフォームが発表されたのは初めてのことだった。アンブロとカサビアンのコラボレーションは世界中の人々の注目を集め、フットボールと他の文化を融合させる試みに対する一つの解答となった。
アンブロは、ワールドカップで優勝経験のある7カ国を称える「ワールド・チャンピオンズ・コレクション」のプロモーションのために、1960年代のアンブロの象徴的な広告デザインをオマージュした。このプロモーションには各国の代表選手の夫人や恋人がモデルとして起用され、世界有数のフォトグラファーであるランキンがイメージ撮影を担当した。また、「ワールド・チャンピオンズ・コレクション」の各ユニフォームの左胸には、各国の新進気鋭のアーティストがデザインしたクレスト(紋章)があしらわれている。
アンブロが再びフットボールウェアのデザインに革命をもたらした。性能面における技術革新と、イングランドの伝統的な仕立てのエッセンスを詰め込んだ無駄のない洗練されたデザインとの融合によって、新たなイングランド代表のホームユニフォームを生み出したのだ。この新ユニフォームを発表するにあたって、アンブロはイングランド独自の文化的側面、つまりパンク音楽やイングランドの俳優、ガーニング(※)、イングランド原産の犬などを起用した宣伝を展開した。
訳注:下唇を突き出すように顔を歪める行為。一種の変顔。「gurn」はイングランド独自のスタイルであり、一部地方では「gurning contest」が開催されるほどに根づいている。
アンブロは、フットボールにおけるデジタル技術を用いたマニフェストの一環である「Bring It On(かかってこい!)」キャンペーンを立ち上げた。これは、アンブロ社製品を使用するすべてのクラブと選手たちを一つの理念の下に導いた。このキャンペーンは、フットボールを愛する人々、フットボールをプレーする人々の情熱を、一連の洗練されたプロモーション映像とネット上の活動によって表現したものだ。
アンブロは同社初となる防水加工を施したスパイク「ウルトラSX」を世界にアピールするために、スペシャル・フィルムを制作した。その内容は、「ウルトラSX」を履いたポルトガル代表のスター選手であるデコが、水中でプレーするというものだった。
世界中のフットボールのある風景を記録した「ワン・ラブ・プロジェクト」は、文化や人、フットボールのあり方といった部分での差異と、同時に彼らが持つ共通項を明らかにした。フォトグラファーのレヴォン・ビスはアンブロと協力し、26の異なる国々において、フットボールという一つの偉大な共通項でつながる世界が見せる様々な表情を写真に収めた。
アンブロのユニフォームを身にまとったチェルシーが、ジョゼ・モウリーニョ新監督の下で50年ぶりとなるリーグ制覇を成し遂げた。
あらゆるフットボールの可能性に生を与えるため、アンブロは「ゴールポスト・キャンペーン」を立ち上げた。その内容は、ゴールポストに見立てることができる(そしてそこでフットボールをプレーできる)様々な風景を映像で記録するというものだ。恐れを知らないフットボール選手ですらゴールポストに選ばないであろうロケーションを収めた一連の映像は、ネット上やTV番組で大反響を呼んだ。
革新的なコラボレーションがまたも実現した。アンブロとイングランドの象徴的なデザイナーであるポール・スミスが手を取り合ったことで、イングランド代表の限定ユニフォームが誕生した。
この年は、アンブロにとって革新の1年となった。画期的なスポーツウールをはじめ、「XAI(ザイ)」シリーズのスパイクに用いられることになる新技術、そして初となるリバーシブルタイプの代表チームのユニフォームが発表された。
スペインのバルセロナで行われたチャンピオンズリーグ決勝では、マンチェスター・ユナイテッドが残り数秒でバイエルンを逆転し、優勝を決めた。国内の二つのタイトルと合わせて、アンブロのユニフォームを着たマンチェスター・ユナイテッドは、イングランド史上初となる三冠を達成した。
1997年6月に行われたフランス・ワールドカップのプレ大会であるトゥルノワ・ド・フランスのハイライトといえば、何と言ってもロベルト・カルロスのフリーキックだろう。アンブロのスパイクを履いたロベルト・カルロスのシュートは、はじめゴールマウスの外へ飛んでいくように見えたが、そこから驚くべきカーブを描いてゴールに吸い込まれた。
1966年のワールドカップ以来の主要国際大会となるユーロ1996がイングランドで開催された。しかし、アンブロのユニフォームを着用したイングランド代表は、準決勝でドイツ代表を相手にPK戦の末に敗退した。残念ながら、1966年のワールドカップのように優勝することはできなかった。
ブラジル代表がアメリカ・ワールドカップで優勝し、通算4度目となるトロフィーを手にした。イタリア代表との決勝はPK戦までもつれ込んだが、この方式で優勝国が決定したのは、ワールドカップでは初めてのことだった。また、この大会ではアンブロのスパイクを履いたコロンビア代表のカルロス・バルデラマとメキシコ代表のGKホルヘ・カンポスが、眩いばかりの活躍を見せた。そして、このワールドカップは、のちにアメリカでプロサッカーリーグ(MLS)が創設されるきっかけとなった。
アンブロは、当時イングランドの将来性豊かなサッカー少年が通うスクールに在籍していた14歳のマイケル・オーウェンに対し、スパイクを提供する契約を結んだ。その後、スクールを卒業したオーウェンは、17歳の誕生日にリバプールとプロ契約を交わした。それからほどなくしてトップチームでのデビューを果たすと、その勢いのままにプレミアリーグでトップクラスのストライカーに成長した。さらに、1998年に行われたフランス・ワールドカップでは、当時のイングランド最年少記録を塗り替えるゴールを決めるなど、華々しい活躍を見せた。オーウェンは現在でも、イングランド代表の歴代最多得点記録で5位につけている。オーウェンは、そのキャリアのほとんどをアンブロのスパイクと共に過ごした選手だ。
快適な履き心地とクラシックなスタイルで有名な「Speciali(スペシアーリ)」シリーズのスパイクは、その後20年にわたってアンブロのトップモデルの座に君臨し続けた。
アンブロはこの年、フットボールの世界の外へ、さらに活躍の場を広げた。F1の「ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング」と、熱気球による初の大西洋横断を成功させた「ヴァージン・アトランティック・フライヤー」の2人(※)にキットを供給した。
訳注:イギリス人のリチャード・ブランソン(Richard Branson)とスウェーデン人のペール・リンドストランド(Per Linstrand)の2人が、「ヴァージン・アトランティック・フライヤー」号で熱気球による初の大西洋横断を成功させた。ちなみに、ガス気球による初の大西洋横断はベン・アブラッゾ(Ben Abruzzo)ら3名によって1978年に実現されている。
当時サウサンプトンのユースチームに所属していた17歳のアラン・シアラーは、アンブロ宛に「何でもいいからスポーツ用品をくれませんか?」と手紙を認めた。この申し出に対し、アンブロは5足のスパイクを贈った。すると、ほどなくしてシアラーはサウサンプトンのトップチームに昇格し、デビュー戦でハットトリックを記録したのだ。シアラーがチームの先発リストに名を連ねるまでに時間はかからなかった。その後、アンブロと正式な契約を結んだシアラーは、彼の世代で最高のストライカーに成長し、さらにはイングランド代表のエースにまで上り詰め、当時のイギリスの移籍金記録を2度塗り替えた。シアラーはキャリアを通して数え切れないほどのタイトルに恵まれ、今なおプレミアリーグとニューカッスルの最多得点記録保持者の座に君臨し、イングランド代表として歴代で6番目(※)に多い得点者として記録されている。
アンブロ初のスパイクはブラジルでつくられた。それは、アンブロの63年の歴史の中で、極めて重要な一歩だった。この頃、アンブロは急速にその活動範囲を世界各地に拡大していた。とりわけアメリカのような、フットボール(あるいはサッカーと呼ぶべきだろうか?)が草の根レベルで爆発的に普及し始めていた地域を重視した。
1986年のメキシコ・ワールドカップでは、イングランド代表とスコットランド代表がアンブロのキットを使用した。イングランド代表は準々決勝のアルゼンチン代表戦で、マラドーナの悪名高い “神の手”ゴールの前に苦杯を嘗めることとなった。
アンブロはイングランド代表に対するキットの提供を、実に10年ぶりに再会することになった。
この年、リバプールはボルシアMGとの決勝戦に3-1で勝利し、ヨーロピアンカップを初制覇した。これは、リーグ優勝とあわせて二冠を達成したリバプールの黄金時代の幕開けであり、その後10年にわたって彼らはイングランドとヨーロッパの覇権を握ることになる。その期間の大部分で使用されたのがアンブロのユニフォームキットだった。
1976年のリーグカップでは、決勝に残った2チームと、さらには審判までアンブロ社製のユニフォームを使用した。
創設者のハロルド・ハンフリーズが死去した。アンブロにとって大きな悲しみの時だった。会社の経営は彼の息子のジョンとスチュワートが引き継いだ。
会長であり創設者のハロルド・ハンフリーズが、70回目の誕生日を迎えた。当時、ハンフリーズは次のように語った。「成功を収めるために必要な3つの能力がある。情熱、粘り強さ、呆れるほどのずうずうしさだ。もちろん、どれも適度が大切だがね」
1972年には、アンブロのユニフォームキットを使用するイングランドの3チームが、それぞれ初タイトルを手にした。リーズ・ユナイテッドはFAカップを初制覇し、ストーク・シティは初めてのリーグカップ制覇を成し遂げた。そして、ブライアン・クラフ監督率いるダービー・カウンティは、クラブ史上初となる1部リーグでのタイトルを手にした。
アンブロの軽量で通気性の高い“アステカ”シャツは、酷暑の中で行われたメキシコ・ワールドカップを戦う選手たちの助けになった。この大会のグループステージではイングランド代表とブラジル代表が歴史に残る名勝負を繰り広げた。その後、前回大会王者のイングランド代表は準々決勝で敗退したが、現在でも史上最高のカナリア軍団との呼び声の高いブラジル代表は最後まで勝ち残り、優勝トロフィーを掲げた。
前年にFAカップを制したマンチェスター・シティが、今度はヨーロッパの舞台で成功を収めた。アンブロのユニフォームを着たシティは、UEFAカップウィナーズカップ決勝でポーランドのグールニク・ザブジェに2-1で勝利し、初優勝を遂げた。
1970年のFAカップでファイナリストとなった2チームは、いずれもアンブロのユニフォームキットを着用していた。この大会は1923年以降、決勝の舞台であったウェンブリー・スタジアムで、初めて優勝が決まらなかったことでも知られている。ウェンブリーで行われたチェルシーとリーズの試合は2-2の引き分けで終了し、その後オールド・トラフォードで行われた再試合でチェルシーが2-1の勝利を収め、優勝を決めたのだ。
1969年に赤と黒の縦縞模様のアンブロ社製ユニフォームを着用したマンチェスター・シティが、レスター・シティを1-0で下してFAカップを制したことは、クラブの歴史の中で一つの記念碑的出来事だ。また、当時はシティ以外にも多くのイングランドのトップクラブがアンブロのユニフォームを採用しており、その中の一つであるリーズ・ユナイテッドは、1968-69シーズンのリーグ王者だ。
スポーツウェアの分での功績が評価され、アンブロはロンドン・デザイン・アワードを受賞した。
セルティックがヨーロピアンカップを制してからわずか1年後に、マンチェスター・ユナイテッドが英国で始めて同大会を制したクラブとなった。ウェンブリーというこれ以上ない舞台で、アンブロのユニフォームキットに身を包んだユナイテッドが、ベンフィカを4-1で下した。
のちに“リスボン・ライオンズ(※1)”と呼ばれることになる、グラスゴーから30マイル(約50km)以内の場所で生まれた選手たちを擁したセルティックが、ヨーロピアンカップ(※2)を制した初の英国のクラブとなった。アンブロのユニフォームキットに身をつつんだセルティックは、決勝でインテルを2-1で下し、空前絶後の 五冠(※3)という偉業を成し遂げた。
訳注:
※1 この年のヨーロピアンカップ決勝がリスボンのエスタディオ・ナシオナルで行われたことに由来する。
※2 UEFAチャンピオンズリーグの前身となる大会。
※3 スコティッシュリーグ、スコティッシュカップ、スコティッシュリーグカップ、グラスゴーカップ、ヨーロピアンカップの五冠。
ウェンブリーで行われたワールドカップ決勝でイングランド代表がドイツ代表に4-2で勝利し、初優勝を果たした。イングランドフットボール史において最高の出来事の一つとなった。
間近に迫ったワールドカップに向けて、ハロルド・ハンフリーズの息子であるジョンは交渉のために各参加国を渡り歩いた。その結果、出場16カ国中15カ国とサプライ契約を結ぶことに成功した。アンブロは、それぞれの国の要求に合わせてユニフォームキットを製作した。中にはチームのスター選手のために、1試合につき30着のユニフォームを必要とする国もあった。
1966年当時、英国のフットボールチームの実に85%がアンブロのユニフォームキットを使用していた。アンブロが高く評価されていたことが如実に分かるデータだ。
アンブロは、当時の世界最高のフットボーラーの一人であったデニス・ローと独占契約を結んだ。マンチェスター・ユナイテッドやスコットランド代表でストライカーとして活躍していたローのレプリカ・キットは好評を博し、若いファンたちは彼の格好やプレーを真似ることに夢中になった。
この年の1月6日に、アンブロの工場は火事に見舞われた。しかし、災難からわずか1週間のうちに、工場は早くも稼動を再開した。
1963年10月22日火曜日付けのデイリー・エクスプレスに、ハンフリーズのことを“フットボール界のディオール”と評した記事が掲載された。この記事の中では、過去100年の間のフットボールウェアの発展が紹介され、その旗手としてアンブロの名が挙げられた。
アンブロのユニフォームを着用したブラジル代表が、決勝戦でチェコスロバキア代表を3-1で下し、2度目のワールドカップ優勝を果たした。
アンブロのキットを使用したトッテナムは、この年のFAカップ決勝でレスター・シティを2-0で下して優勝を決め、20世紀で初めてのシーズンダブルを達成したクラブとなった。
この年、アンブロはスポーツウェアの世界に革命をもたらした。少年向けのレプリカのユニフォームキット(シャツ、ショーツ、ソックス)を発表したのだ。このキットを身に着けることで、若きフットボーラーたちは憧れのスター選手と同じ格好に変身することができた。その後、世界に広がる一大産業となったレプリカ・キット事業の幕開けだった。
アンブロはマンチェスター・ユナイテッドの指揮官を務めていたマット・バスビー監督と協力し、冬用のスポーツウェアを開発した。つまり、試合におけるバズビー監督の鋭い洞察力を設計の分野に転用したわけだ。これは、フットボールの世界における公式コラボレーションの中で、最初期のものの一つであり、以降のアンブロの「王者の選択(Choice Of Champions)」シリーズの嚆矢となった。
アンブロは、テニスプレーヤーでありデザイナーでもあるテディ・ティンリングと協力し、スポーツウェアの開発に着手した。ティンリングは、その後30年にわたってテニスウェアの世界における革新的な存在となった。1950年代から1970年代にかけて、ウィンブルドン選手権を制した女子選手の多くが、彼のデザインしたウェアを着ていた。ちなみに、ティンリングの死後、彼が第二次世界大戦中に英国政府のスパイとして働いていたことが明らかになっている。
アンブロのウェアを着用したロジャー・バニスターが、1マイル(1609.344メートル)を世界で初めて4分を切るタイム(3分59秒4)で走り抜けた。長年にわたる練習や何度かの失敗を経て、バニスターは不可能を可能とし、歴史に名を残したのだ。
アンブロにとって大成功を収めた年となった。FAカップの決勝に勝ち進んだブラックプールとボルトン、さらにはスコティッシュカップの決勝にたどり着いた、グラスゴー・レンジャーズとアバディーンの4チームすべてが、アンブロのユニフォームを身に着けていたのだ。
1952年にヘルシンキで行われた夏季オリンピックで、イギリス代表チームはアンブロのウェアを着て戦った。それらのウェアは、各スポーツの要求に合わせてアンブロがそれぞれ開発したものだった。アンブロは、その後20年にわたって、オリンピックに臨むイギリス代表にウェアを提供した。
アンブロの創立25周年を祝って、従業員からハロルド・ハンフリーズに掛け時計が贈られた。すべての従業員がお金を出し合ってプレゼントを購入したのだ。その後長い間、この時計はアンブロに対する従業員の忠誠心のシンボルとなった。製品の注文が多いとき、従業員はしばしば時計の針を戻し、仕事を完遂するための時間をつくったのだ。彼らの完成へのこだわりこそ、ハンフリーズの誇りだった。
共にアンブロのユニフォームを着用したマンチェスター・ユナイテッドとブラックプールによるFAカップの決勝は、4-2でユナイテッドに軍配が上がった。異例のことだが、この試合では、イングランドサッカー協会の要請によって、ユナイテッドは青いシャツを、ブラックプールは白いシャツを着てプレーすることになった。
ハロルド・ハンフリーズは、会社の行事に積極的に参加していた。たとえば、1946年には従業員を率いてブラックプールへとピクニックに出かけた。堅実な人柄で知られるハンフリーズだが、従業員からは親しみやすいリーダーとして慕われていた。
ハロルド・ハンフリーズは、従業員との間に家族のような一体感をつくることを常に心がけていた。たとえば、1940年に催したダンスパーティーなど、いくつものイベントを主催した。こういったイベントが、従業員の間に強い仲間意識を作り出すことに一役買ったのだ。
第二次世界大戦が開戦するとともに、ハロルド・ハンフリーズはイギリス政府と交渉し、アンブロが軍需産業に従事する許可を取り付けた。そのため、それまでフットボールのユニフォームを製造することを生業としていたアンブロは、軍服やガスマスクのカバー部分、さらにはランカスター爆撃機の部品まで製造することになった。また、ハンフリーズは、アンブロの社員食堂で25万人以上の兵隊に食事を提供した。そして、従業員の士気を高めることに務め、それ以上に会社が戦争を乗り切るために心血を注いだ。
この年、FAカップの決勝が初めてテレビ中継された。アンブロのユニフォームを着用したプレストン・ノース・エンドが、ハダーズフィールド・タウンを1-0で下し、トロフィーを掲げた。
アンブロが成し遂げたこの年の革新は、「フリクションフリー」ショーツだった。圧倒的なサポートと動きやすさを提供するこのショーツは、スポーツ界全体における設計上の大きな革新となった。
この年のFA CUPの決勝に進んだシェフィールド・ウェンズディとウェストブロムウィッチアルビオンの2チームともアンブロを着用。
マンチェスター・シティは、ウェンブリーで行われたFAカップ決勝でポーツマスを2-1で下して優勝した。この試合では両チームともにアンブロ社製の革新的な「タンジェルキット」を着ていた。試合後には勝者のマンチェスター・シティからアンブロに「ユニフォームのフィット感、品質、機能性」への感謝を表した電報が送られた。
この年に、初めてFAカップ決勝で使用されたアンブロの「タンジェル」シャツは、ペルー産の最高級の綿を原料に用いた革新的に柔らかい生地によって製造された。この生地は、その後すぐにフットボールの世界で広く採用されることとなった。
設立からわずか4年のうちに、アンブロは5000チームに製品を供給できるほどの生産力を身につけた。アンブロは顧客の需要に対応するために、前例こそなかったが、注文を受けてから24時間~48時間で商品を届けるサービスを開始した。
この年、22歳だったリリアン・アイレスが、当時アンブロ本社に6人いたオペレーターの一人として働きはじめた。それから彼女は、1980年に76歳になるまで、実に54年もの間働き続けた。アンブロという家族の一員として、長年にわたる献身をしてくれた従業員の一人だ。
アンブロが資金をつぎ込んだのは「オースチン7」(※)だった。この投資により、セールスマンはより遠方へと、製品の売り込みに向かうことが可能となった。ほどなくして、アンブロ製品はイギリス全土の店頭に並ぶこととなる。
訳注:1922年から1939年にかけてイギリスのオースチン社が生産した小型乗用車。
イギリス全土におけるフットボールに対する情熱の高まりを感じ取ったハロルド・ハンフリーズは、兄弟のウォレスと共にチェシャー州ウィルムスローに小さな工場を開いた。「アンブロ」というブランド名は、彼らハンフリー・ブラザーズ(Humphreys brothers)に由来している。
ボルトンとウェストハムによる1923年のFAカップ決勝は、「白馬の決勝戦」(※)としてフットボールの歴史に刻まれている。旧ウェンブリー・スタジアムで行われた初めてのFAカップ決勝であり、20万人を超える観客が押しかけたと伝えられている。この試合は、フットボールが一介の人気スポーツから、国民の熱狂を誘う一大イベントになったことを象徴していた。当時、駆け出しの仕立て屋だったハロルド・ハンフリーズは、この熱狂を目の当たりにし、急成長するスポーツウェア事業の世界にこそ、自身の能力を活かす絶好のチャンスが転がっていると確信したのだ。
訳注:ウェストハムのコーチを務めていたチャーリー・ペインター(Charlie Paynter)が、0-2の敗戦の理由として「試合前から白馬が蹄を叩きつけたように、ピッチがでこぼこだった」ことを挙げたことから。